蒸気機関を大量に売った男 マシュー・ボールトン|ビジネス教養:産業革命編

産業革命

こんにちは。アリントスです。

「第一次産業革命期におけるイギリスの企業家」と題して始まった、連続投稿も8記事目になります。
前回記事の参考文献はこちらです。

前回記事ではカール・B・フレイによる、イギリスの労働力はそれほど安価ではないという指摘と、彼が主張するイギリスで産業革命が起きた最大の理由は、府が労働置換技術の導入を推奨したからであるということをまとめました。

今回からは参考文献を変えて、いよいよ産業革命期の企業家達の具体像に迫っていきたいと思います。
参考文献はこちらです。

著者は大河内 暁男で1978年に書かれた少々古い書籍となります。
しかし、本著は近年に発行されたイギリス経営史の教科書等においても変わらずに参考にされる程の重要な研究が記されたものになります。
また、本著は具体的な当時の企業や企業家の変遷や判断を、当時の資料を基に解き明かしており、今回の学び直しにはピッタリなのです。

本記事と次記事では本著を参考に蒸気機関の販売会社を設立し、初めて蒸気機関を売ったビジネスパーソンを取り上げます。
その名も「マシュー・ボールトン」です。
ボールトンの企業家としての苦悩と決断に触れながら、現代のビジネスパーソンにも有用な知見を抽出していきたいと思います。

  1. マシュー・ボールトンの概要と背景
  2. マシュー・ボールトンの30代の失敗
  3. マシュー・ボールトンの40代での大成功

の3部構成で3記事に渡って綴っていきます。

そもそも当時の企業家ってどんな人たちが居た?

ボールトンに触れる前に、そもそも産業革命期のイギリスの企業家が置かれた状況や彼らの概要を整理しておきましょう。
前回記事でも触れた通り、18世紀後半のイギリスの産業界は政府による産業振興と国際貿易の発展が目覚しい時代でした。
特に製造業においては職人がバラバラに作業をするような手工業は見直されていました。
多数の労働者を一つの作業場に集め、大規模な分業体制を敷いたマニュファクチャー体制が広まりつつありました。
重要なことは、これから登場する企業家達は、決して一から大規模な工場を築いた訳ではなく、分業制かつ、人力ではあるものの簡易な機械を導入することが一般的な状況にあったということです。
すなわち、当時の企業家にとっては、この大規模な分業のマニュファクトリー体制の限界突破を行い、さらなる生産性向上を果たすことが命題となっていたのです。

さて、当時の企業家にはどのような人たちが居たのか。本書から引用します。

ジョン・ワイアトのように、またジョサイア・タッカーのように、新生産技術たる機械の生産力と経済的効果とを認識して、工場制生産という方向に照準を定めた者もあれば、ジョサイア・ウェッジウッドのごとく革新的販売方法を開発する者もあり、ある者はひたすら大規模生産を追求するかとみれば、他のある者は自分の得手とする技術領域に深く切り込んで極度の専門化を求める、という工合であって、選択の方向は多用をきわめていたのである。

産業革命期経営史研究 p5

つまり、多種多様な企業家の坩堝のような状況で、各人各様に暗中模索して、現状からの脱却を目指していたのです。
そして、彼らの多方向への企業努力が、機械化された工場制度という、いわゆる産業革命に収斂されていくのです。

マシュー・ボールトンって誰?

マシュー・ボールトンは彼自身の名前よりも、彼の相棒が世界史ではすこぶる有名です。
相棒の名前は「ジェームズ・ワット」。
言わずと知れた、ワット式蒸気機関を発明した蒸気期間の父と言われ、産業革命を加速させ、世界を変えた人物です。
彼はその功績により仕事量の単位「W(ワット)」にその名前を残す偉人です。
しかし、この偉人は、ビジネスパートナーであるマシュー・ボールトン無くしては世界を変えることはできなかったのです。
そんな「マシュー・ボールトン」を掘っていくことで、技術者とタッグを組みビジネスを育てるビジネスパーソンとして学ぶことがあると考えています。

今回は特に彼の前半生にフォーカスを当てていきたいと思います。
後半生は後半生でイギリスの貨幣鋳造業を営み、英国史の重要な事業の担い手となったという意味で面白味もあります。
ただ、彼が産業の変革の波をいち早く察知し、自らその波に乗り、更に波そのものを大きくしたのは前半生の出来事です。
そのため、彼の前半生の振る舞いや判断を追うことは、より荒波をかき分ける必要のある現代のビジネスパーソンに有用だと考えています。

2代目社長が野心を抱く

1728年イギリスのバーミンガムでベルトのバックル製造業を営む父のもとにマシュー・ボールトンは生まれます。
17歳から父の仕事を手伝い、21歳には父の共同経営者となります。そして父を31歳に亡くす頃には、既に自分の企業をバーミンガム地域の同業者の中で指導的な地位まで育てあげていました。
そもそも、企業経営者、ビジネスパーソンとして優秀であったのです。

そして、上述の通り、既に一般的であった多数の労働者による分業制は既に彼の作業場でも実施されていました。
そのビジネスが堅調に伸びている経営者のボールトンは1761年にこう考えます。
「もっと事業を拡大するには、もっと大きな作業場が必要だ!」
多数の労働者を抱える分業制においてビジネスを拡大するのは作業場の拡大が必要不可欠でした。
また、ボールトンはこうも考えます。
「今の工場には無い水車を動力源に使い、作業機を導入して生産性をあげよう!」
機械化が進みつつあった当時の技術を取り入れようという目論見です。
これら彼の野心を体現する「ソーホー・ハウス(当時はソーホー製作所)」が1762年に建造されました。

このソーホー製作所は、就労可能人員は約1,000名と言われ、当時としては全国屈指の規模を誇りました。
このソーホー製作所を皮切りに、ボールトンは一躍、イギリスの産業界では名の知られた企業家としてのし上がっていくことになります。

駆け上がり始めたボールトンに学ぶこと

本記事では、マシュー・ボールトンが敏腕2代目社長として家業を継ぎ、より事業拡大を狙い大規模な作業場を作ったところまで見てきました。
ここで注目しておきたい事柄は3点あります。

一般的なビジネス・経営のスキルは既に持ち合わせていた

彼は若くして経営者となり、地域産業の指導的な立場になるまでに事業を発展させるだけのスキルを持ち合わせていました。
この後ワットという稀有な技術者と運良く出会うことになりますが、決してボールトンはラッキーだけの男では無いということです。
ラッキーに加えて、ビジネスの自力を若いうちに蓄えていたからこそ、ここぞという場面で踏み出せたのだと思います。

既に動力源に目を付けている

この事は参考文献でも注目されています。

ボウルトンはこの時すでに、自分の必要に迫られて、作業機の動力源が工場経営にとって重要な問題であることを、少なくとも認識はしていたわけで、この点は、後年、彼が蒸気機関製造に進出するにあたって、経営構想の親石となるものとして、予め注意しておく必要がある。

産業革命期経営史研究 p9

ソーホー製作所を計画したのは1761年であり、ワットとともに蒸気機関製造に乗り出したのは1775年になります。
つまり、約15年前からボールトンの頭の中には、体験的に今後の工場経営の根幹は「動力源」になるのだと刻み込まれていたと言えるでしょう。
このように、昔の自らのビジネス上の悩みこそが、彼の後年のビッグビジネスのチャンスを呼び寄せているように思えますし、自身の悩みに後年、解決策を導き出したとも思えます。

大きな投資にビビらないタフな精神

参考文献によると、ソーホー製作所は建設費と設備費等に約20,000ポンドを費やしたとあります。
操業翌年の1763年の彼の会社の年間売上高は7,000ポンドとありますから、非常に大きな設備投資を行ったと言えるでしょう。
(7000ポンドの内、営業利益が1400ポンド出ていたとしても、回収には14年かかる計算です。)
もちろん、操業の5年後には年間売上高は30,000ポンドに達したと言いますから、投資回収に向けた事業拡大は成功しているのでしょう。
この規模の先行投資を33歳で計画しているのですから、やはり、敏腕と言わざるを得ないところです。
いつの時代も大きく成功する人は、年齢に依らず、投資すべき時には思い切った投資に踏み切れるということだと思います。

以上、3点の駆け出しボールトンからの学びでした。
次記事では、ソーホー製作所を皮切りにライジングしていく(?)ボールトンを見ていきたいと思います。
ここまでお読み頂きありがとうございました。
良い日々をお過ごしください。

コメント

タイトルとURLをコピーしました