こんにちは。アリントスです。
「第一次産業革命期におけるイギリスの企業家」と題して始まった、連続投稿の9記事目になります。
前回記事では、蒸気機関を初めて売った男と題して、あの蒸気機関の父ジェームズ・ワットの相棒であるマシュー・ボールトンの概要を綴っていました。
3行でおさらいすると、
・大規模な分業制が流行していたバーミンガムで
・バックル製造業の2代目社長が
・経営者の才能と勇気で駆け上がる
と言ったところでしょうか。
参考文献はこちらです。
本記事では、莫大な資金を投入して、当時のイギリスでも随一の規模を誇るソーホー製作所を建造したボールトンのその後のライジング(?)っぷりを見ていきたいと思います。
立派な製作所を建てて有名になったはいいが…。
ソーホー製作所を建てた効果や影響を見ていく前に、実は建造中の1762年、ボールトンは大陸事情に詳しい貿易商のジョン・フォザギルとパートナーシップを結んでいます。
ここに「ボールトン=フォザギル商会」という大規模な生産設備を擁する企業が設立します。
9つ目の記事にしてやっと企業名が出てきました。
この新生ボールトン=フォザギル商会は前回記事でも触れた通り、1762年のソーホー製作所の操業開始から1767年の約5年間は大量生産による売り上げ増加で順調な経営を行っていきます。
この5年間では、従来のバックル事業に加えて、装身具や装飾金属品などの贅沢品に手を広げていきます。
しかし、操業開始時にビジネス上の欠陥が埋め込まれていたことにボールトンは気付いていませんでした。
けれども、奢侈的金属製品の需要は流行に左右されがちであり、その市場は、国内国外を問わず、勤労大衆というよりはむしろ上流社会の購買力に依存するものであった。
したがって、これら金属製品は、製造技術面から見ても需要面から見ても、実は大量生産が困難であり、かつ不向きのものであった。ボウルトンはこの問題に気付いていたのであろうか。
産業革命期経営史研究 p 12
つまり、大規模な生産設備を構えて大量生産を行うビジネスモデルを組んだボールトンでしたが、そもそも生産する商品は大量生産に向かない性質だったということになります。
ただ、このソーホー製作所を建造した意義は彼にとっては非常に大きく、数々の上流社会の顧客が見学に訪れ、関係構築を行うことで、ついには国王に謁見を許される程にまで、彼の地位を押し上げました。
また、当時のイギリスは大陸から優れた美術品や工芸品が持ち込まれ、芸術熱が高まっていたために、ボールトンが需要を見込んで経営的判断を行なったという意味で、あながち合理性に欠けているとは言えないでしょう。
当初は順調そうに見えましたが、操業から5年後の1768年から1773年の約5年間は極度の経営不振に陥ります。
毎年借入を行い、まさに自転車操業。しまいにはボールトンは自分自身の資産である土地を売り払い、商会の資金に当て込んでいます。
後年、ボールトンの右腕として工場経営を担うジェームズ・キアはこう評します。
「事業は、実際、過去数年にもわたって、大赤字の経営をやっている。…行っている仕事の量にくらべて、建物も道具類も過大だ。」
つまり、キアの分析によると経営不振の原因は需要の状態を見ずに、ソーホー製作所における過大投資をし過ぎたことであったのです。
ボールトン=フォザギル商会の解散
1762年に創業したボールトン=フォザギル商会は1781年に経営不振により解散(倒産)してしまいます。
その原因は大きく2つに集約されると本書では言われます。
- 強みである大規模生産に合わないジャンルでの商品の開発・販売を行っていた
- 大規模な作業場の管理運営と国内販売をボールトンが一人で統括していた
前者は、前項で述べた通りで上流階級向けの高級な工芸的な金属製品を大量生産しようとしたビジネス モデル上の欠陥になります。
現代でも同じですが、この手の製品は本来的に個別的で独自性の高い商品こそが価値を持つものですので、そもそも大量生産に向かないものでした。
また、流行に敏感に反応して、多種類の商品に対して変化を維持していく必要がありました。ボールトンも、流行の取り入れには傾注しましたが、何せ一人で生産管理を行うため技術的な面で追いつきませんでした。
なお、同じように上流階級向けの高級品を大量生産して見事に成功した人物がおります。
ジョサイア・ウェッジウッド。
そう今もイギリスの高級食器として有名な「ウェッジウッド」の創業者です。
彼についても別記事で触れたいと思いますが、彼とボールトンのビジネスモデルで大きく違うところがあります。
それは、ウェッジウッドの食器事業は、商品の特性として大量に使用する類のものであること、そして、上流階級で売れているというブランディングによって中級の製品へも価値付がなされていたことです。
詳しくはまたどこかで。
ボールトンに話を戻すと、経営不振の2つ目の理由である生産管理運営と国内販売に対する限界は、この産業革命期で経営者が陥る初の課題だったでしょう。
これまでの職人による手工業であれば、一人の熟練の親方によって生産と販売の管理機能は統括できていました。逆にいうと、一人で統括できる程度の規模のビジネスにしか拡大しなかったのです。
しかし、ソーホー製作所によって大規模になると管轄範囲が急拡大し、ボールトン一人で生産と販売の管理を行うことは不可能になりました。
ボウルトンから経営立て直しについて相談を受けたキアは、鋭くもこの管理問題を指摘して、まずソホウ製造所における製造部門をボウルトン=フォザギル商会から分離し、これを製造専門の独立企業とすること、ボウルトン=フォザギル商会は製造部門を持たず、ソホウ製造所のための原料の一手仕入とソホウ製品の一手販売を行う商事会社となること、という経営組織の改組を提案している。
産業革命期経営史研究 p 22
現代の製造業の企業において製造部門と仕入部門、販売部門が明確に分離されるに至った源流はここにあるのです。
そして、数百人の労働者を集めたソーホー製作所では、キアが管理者として参画するまでは、専門の生産管理者や管理組織が存在しませんでした。
倒産間近になってキアに指摘されるまで、ここにボールトンは気付いていなかったのです。
ボールトンの1社目の倒産から学ぶこと
ボールトン=フォザギル商会の倒産から学びたいことの1つ目は何より「ビジネスモデルが超大事!」ということですね。
古今東西、資本主義が始まった初期から経営者を悩ますということは、これこそがビジネスの本質と言っても過言ではないのでしょう。
現代の私たちはビジネスモデルの重要性や作り方については多くの先人の知見に学ぶことができます。
個人的にオススメはこちらの「ストーリーとしての競争戦略」です。
ボールトンの「需要は見込めそうだが、大量生産には向かない商品に手を出した」というビジネスモデル上の欠陥がありました。
ソーホー製作所が彼のビジネスモデルの「クリティカル・コア」だったはずですが、これが他の様々な要素とは分離してしまっていたために、うまく回らなかったと分析できると思います。
2つ目は「企業のマネジメントは管轄範囲を絞るべし」ということです。
ボールトン自身は起業家としての才覚は十分でしたし、企業の経営能力も優れていることはこの後の歴史が物語っています。
しかし、大規模経営を実行するにあたり、己一人のみでマネジメントを実行しようとしたことが倒産に繋がりました。
いかに優秀な個人であっても、大きな事業を一人で成すことはできず、各セグメントのマネージャーを必要とするということでしょう。
マネジメント本としての名著といえば、ドラッカーのこちら。
個人的に歴史好きなビジネスパーソンにオススメしたいのはマキャベリの君主論です。
ただ、君主論そのものは難解なので、「NHK 100de名著 ブックス マキャベリ 君主論」を先に読むことを推奨します。
歴史的な古典を読みつつ、企業経営も学べるという一石二鳥本です。
ボールトンの物語は次回で終幕といたしましょう。
次回はついに、ジェームズ・ワットとともに蒸気機関の開発・販売事業に乗り出します。
お読みいただきありがとうございました。
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