サミュエル・ワイアット 建築家が製粉業に目を付ける|ビジネス教養:産業革命編

産業革命


こんにちは。アリントスです。

「第一次産業革命期におけるイギリスの企業家」と題して始まった、連続投稿の11記事目になります。

前回記事では、蒸気機関の父ジェームズ・ワットの相棒であるマシュー・ボールトンが蒸気機関製造業で成功を収めた理由を見てきました。
端的には、製造業の経営者として自身が抱えていた課題を解決するビジネスを立ち上げ、当時は一般的ではなかった自社での内製化を徹底して目指すことにより成功できたと考えられます。

参考文献はこちらです。

今回はマシュー・ボールトンやジェームズ・ワットが蒸気機関の供給サイドであるとした場合の需要サイドに立った人物を見ていきたいと思います。
彼の名前は「サミュエル・ワイアット」と言います。
新たなテクノロジー、それも大きくビジネスを変えそうなテクノロジーが勃興しつつある現状を前にビジネスを起こす需要サイドの経営者はどのような課題にぶち当たるのでしょうか。

建築家だけど蒸気機関に目を付け製粉業に手を出す。

サミュエル・ワイアットは建築家一家に生まれ、自身も建築家として世に出ます。
1780年頃にはロンドンで建築家として働いていたと言います。
長兄はロンドンで製パン業を営み、二人の弟は建築家と測量技師、叔父は紡績機の発明家といった家族を持ちます。
そんな彼が畑違いの製粉業に関わるのは1782年に海軍の製粉所の建設とそこで使用する機械の推薦を行う仕事を受けたことがキッカケでした。

そもそも、製粉業とはどんな仕事か触れておきます。
製粉とは粉を作ることを言い、当時は小麦から小麦粉を作ることを指しました。
現代の日本では日清製粉グループがシェアNo.1の業界です。
今日では様々な機械が使用されていますが、当時の製粉に使う機器といえば石臼でした。

石臼。いらすとや様より。

この石臼を水車の動力で回転させて、粉を挽いていました。
当時のロンドンには大小500程度の製粉所があったと言われ、小さいところでは石臼1基、大きいところでも石臼4基程度を有する規模でした。
この石臼の数を覚えておいて頂きたいです。

さて、このような製粉業にワイアットが本格的に参入するのは1783年のことです。
ワットとボールトンが回転式の蒸気機関の1号機を完成させた2年後になります。
この頃、ワイアットは弟たちと進めていた土地開発プロジェクトの一環で、テムズ川の河岸に製粉所を新設しようと計画を立てました。
その製粉所にワットの回転式蒸気機関を動力源として用いることを想定し、ボールトンに再三、協力を要請したことで実現に向かいます。
ボールトンも、これまで水車を主な動力源としていた製粉業に蒸気機関を適用し上手くいけば、この業界への展開が見込めるといった思惑もあったことでしょう。
近接領域から攻めて、置き換えて行こうという考えが見えます。

建設には紆余曲折ありつつも、1786年に無事、開業を迎えることとなりました。

当代最高の技術の驚異と表されるモンスター製粉所が爆誕

1788年に最終的にこの製粉所の規模は、当時は大きな製粉所でも石臼4基のところ、なんと石臼20基を備え、昼夜連続稼働を2基の回転式蒸気機関で実現するという非常に大規模なものでした。
まさにモンスター。
しかも、開業時の初期不具合を除くと極めて順調に稼働し、むしろ当初見込んでいた生産能力を超過する程にすこぶる好調でした。

しかも、当代一の技師として名高いジョン・レニが製粉所に様々な機械的な工夫を凝らしました。
荷物の荷揚げから製粉の各工程に至るまで全ての工程で蒸気機関の動力を用いて機械化したのです。
これにより、単なる大量の石臼を回転させている製粉所ではなく、工場と言って差し支えない製粉所となったのです。

かのジョン・スミートンをして「これまで世界に例のない、最も完璧なもの」と讃えたそうです。

ワイアットの当初の経営目論見

完成前年の1785年に戻りましょう。
この年にワイアットは製粉所の経営計画をボールトンに送っています。
その中で特に、利益計算に特徴がありました。
この計画では、原料の小麦の価格も小麦粉の販売価格も登場しません。
登場するのは、当時の業界平均の1ロード(重量の単位)当たりの利益額とそれに対する、彼の製粉所の1ロード当たりの利益額のみになります。
つまり、ワイアットは業界平均の利益は出せることを前提として、その上でいかに生産性を高めて、利益を出せるのかと計算していることになります。
ここでは業界平均の1.7倍の利益率を出せると見込んでいます。

この点を参考文献の著者の大河内先生はこう評します。

右のワイアトの計画に含まれている利益計算は、革新技術の採用がいかに有利であるかを、企業経営者の立場からはっきりと認識し、それを具体的に説明したものであるという点で、産業革命期の先駆的企業者の認識がどのようなものであったかを知る一つの手がかりとして、注目に値する。

産業革命期経営史研究 p78

モンスターを使いこなせなかったワイアット

さて、モンスター級の世界一と評される製粉工場が操業を成功し、ビジネス的にも大成功を収めたかと言うと、残念ながらそうではありません。
1791年3月に火事で焼け落ちるまでの約5年間で企業として十分な利益を出せたことはありませんでした。
ボールトン=ワット商会は、莫大な工場建設費用と同等額を投下資本として投入し、丸々損失になってしまうダメージを負っています。

なぜ、世界最高の技術を誇ったモンスター工場がビジネス的には成功しなかったのでしょうか?
大河内先生の分析による2つの要因は以下となります。

  1. 経営管理の問題
  2. 経営規模の問題

経営管理の問題

早速、大河内先生の分析を引用してみます。

企業設立者自身が必ずしも経営管理機能を発揮できない状況にあったこと、それに加えて、空前の大製粉所を経営するには、旧来の製粉所とは異なった管理能力が必要となったこと、この二重の意味での経営管理者問題を、アルビュアン製粉所は経営の隘路として最初から抱えており、しかもそのまま発足したわけなのである。

産業革命期経営史研究 p83

伊丹敬之は著書「経営を見る眼」でミクロマネジメントとマクロマネジメントには壁があり、その一つに「経験と習得の壁」があると言います。
そして、マクロの立場になった時には、ミクロの眼に、さらに大きなマクロの「枠づくり」の目と見識がないとマクロマネジメントはできない、と言います。
すなわち、アルビュアン製粉所で雇われた製粉業に詳しい親方はあくまで自身のミクロな製粉所で優秀だったかもしれませんが、アルビュアン製粉所のようなマクロな経営の目も見識も無かったということでしょう。

とはいえ、この時代の雇われ親方にそれを求めるのは無理というものです。
そもそも、この規模が前代未聞ですし、大規模生産の目と見識を持つ人材は、それこそ企業者のボールトンやワイアット自身だったのですから。

現代の我々はここから学ぶべき事業の本質は、ミクロとマクロは全く違うマネジメント技術が必要ということでしょう。

経営規模の問題

アルビュアン製粉所の生産能力は企業者達自身でも予測を見誤るほどの高生産性を見せていました。
ただでさえ、類を見ない大規模で高性能な製粉所にも関わらず、その最大の生産能力を誰も把握できないままに、ただひたすら生産単価を下げるために遮二無二稼働させています。
このことが、原材料と製品の過剰な在庫を生むという経営管理上の問題を発生させています。
上記のように製粉所の経営管理者たる親方の能力不足というだけでなく、ワイアット達もこのモンスター級の生産能力が経営にどのような影響を与えるのかを予測できなかったと大河内先生は分析しています。

この問題は世界初のモンスターを生み出した企業経営者として、ワイアットやボールトンらが支払うべき必要なコストだったのかもしれません。

まとめ

世界最高の生産能力を持つ製粉所を生み出すことができたワイアットでしたが、その手綱を取り、ビジネスとしての成功を収めることはできませんでした。
蒸気機関を取り入れた需要サイドの失敗例となってしまいましたが、彼の失敗から学ぶことは大きいです。
それは、新しいテクノロジーを既存ビジネスに適用させることは企業や事業の経営の枠組みを再構築し直すことに他ならないということです。
そして、その経営の枠組みを再構築することはマクロな眼と見識が必要であることです。
現代の我々がその状況に直面することに備えるとしたら、先人の知恵に学ぶことのみでしょう。

ワイアットが企画しボールトン=ワット商会が協力をしたアルビュアン製粉所の失敗。
しかし、この失敗を見て、 学んだ上で参入してくる2世代目の産業革命の企業家達がいます。
彼らこそが、蒸気機関という新たな技術の単なる浮かれた空気を、まさに革命と呼ぶに相応しいまでに熱狂をさせていくことになります。

次回は、ボールトンやワット、ワイアットのような産業革命の先人と言っていい企業家ではなく、彼らの起こした産業革命に、ある種巻き込まれたその他大勢の企業家達に目を向けていきたいと思います。

ここまでお読み頂きありがとうございました。
引き続きの購読をよろしくお願いいたします。

ではでは

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