こんにちは。アリントスです。
「第一次産業革命期におけるイギリスの企業家」と題して始まった、連続投稿の10記事目になります。
前回記事では、蒸気機関の父ジェームズ・ワットの相棒であるマシュー・ボールトンの30代のビジネスの失敗談を見ていました。
ソーホー製作所という当時の世界有数の大規模な工場を作り、バックルの大量生産ビジネスで成功していたにも関わらず、金属工芸品の製造業に手を出し、大規模工場の特性と噛み合わず失敗、会社も倒産。
ビジネスモデルも悪けりゃ、マネジメント範囲も見誤るという失敗をしてしまったボールトンの30代でした。
参考文献はこちらです。
30代の失敗もそこそこにボールトンは世界を変えるビジネスを新たに始めます。
そう「蒸気機関ビジネス」です。
本記事では、2つのWHYを見ていきたいと思います。
- どうしてボールトンは蒸気機関の製造業に行き着いたのか?
- どうしてボールトン(とワット)は蒸気機関の製造業で競争力を持てたのか?
この2つのWHYを理解することで、彼が蒸気機関を売り捌くことで産業革命を推進させ、ひいては世界を変えることができた理由が見えてくると思います。
最初のWHYに踏み込む前に、ボールトンに関する主要な出来事の時系列を整理しておきます。
彼は多様なビジネスに手を出していることもあり、複雑な人生を歩んでいます。
ある事業で失敗している同時期に別ビジネスで成功もしているという具合です。
西暦 | 出来事 | カテゴリ |
1762年 | ボールトン=フォザギル商会創業 ソーホー製作所の完成&操業開始 | 金属製品製造業 |
1765年 | ワットがワット式蒸気機関の着想を得る | 蒸気機関製造業 |
1768年 | ボールトンとワットが出会う | 蒸気機関製造業 |
1769年 | ワットがワット式蒸気機関で特許を成立させる ボールトンがワットに企業化を申し入れる | 蒸気機関製造業 |
1775年 | ボールトン=ワット商会を創業し、蒸気機関製造業へ踏み出す | 蒸気機関製造業 |
1776年 | ワット式蒸気機関(往復運動)の第一号機を完成させる | 蒸気機関製造業 |
1777年 | ウィリアム・マードクが蒸気機関製造の技術者として雇われる | 蒸気機関製造業 |
1778年 | 盟友キアがソーホー製作所の管理監督として参画 | 金属製品製造業 |
1779年 | キアとワットとともに転写器製造・販売ビジネスで成功する | 転写器製造業 |
1781年 | ボールトン=フォザギル商会の解散(破産) | 金属製品製造業 |
1781年 | ワット式蒸気機関(回転運動)の第一号機を完成させる | 蒸気機関製造業 |
1790年 | ボールトンは貨幣鋳造業に進出 | 貨幣鋳造業 |
1795年 | ソーホー鋳造所を開設し、部品内製化と一貫製造を実現 | 蒸気機関製造業 |
1796年 | ボールトン=ワット商会がやっと利益を計上する | 蒸気機関製造業 |
なんと蒸気機関製造業は進出から約20年かかって黒字化しています。
この新規事業は、それ以外の成功している事業があったからこそ為せたところなのです。
ちなみに、転写器事業や貨幣鋳造業にまつわるエピソードも濃厚ですので、またどこかでお話しできればと思います。
どうしてボールトンは蒸気機関の製造業に行き着いたのか?
新しいビジネスで成功した人物には必ず聞きたくなる質問が、これです。
ボールトンの場合は端的には、「自分が欲しかったから、作れば他にも欲しい人が絶対にいるはずと思った」という言葉になります。
ボールトンは1762年にソーホー製作所を新設しますが、立地は川の側を選びます。
その理由は、大規模な工場での動力として水車が必要であったためです。
そして、ワットと出会う以前の1765年には製作所の水車水源問題の解決のためにポンプ式蒸気機関の導入を検討しているのです。
つまり、彼はこの1762年から1765年の製作所設立間もない時期に、自分自身の工場経営者としての課題として動力問題に悩まされていたのです。
そして、「今後、大規模な工場を作る場合に課題になるのは動力問題である」ということを深く知覚していました。
だからこそ、1769年にワットが特許を成立させたことを聞くや否や、企業化の申し入れをしているのです。
重要なことは「自身の工場にワット式蒸気機関を導入したいから販売して欲しい」という申し出をしたのではなく、あくまで「共にワット式蒸気機関を製造し、販売する企業を作ろう」という申し出をしたことです。
参考文献の著者である大河内先生は彼のこの点を評して言います。
少し長いですがボールトンを評する名文だと思うので、お読み頂ければと思います。
つまりボウルトンにとっては、新規事業の経営構想を得る問題認識の対象は、自分が経験した日常的必要だったのである。もっとも、このような必要であれば、当時の経営者の多くはそれを感じていたに違いない。ボウルトンがそれら多くの経営者と異なっているのは、次の点である。
すなわち、ボウルトンは、自分の経験的な必要が社会的な必要と繋がりうるか否か、自分の必要を満たす方策が社会的必要に応じうるものか否かを、つまり自分の必要性とその解決策が社会性を有するかどうかを、鋭敏に知覚し、判断したのである。
そして、新事業の可能性を認識するや、そこに機械を用いた集中作業場による大量生産の理念を押し立てて、たちまち企業化の経営構想を組み上げ、実行に移ったのだと言ってよい。
こうして、自分が経験した企業経営上の必要性とその解決策とを、経営環境との関連において把握し、その意味を読み取って、企業経営の進路を定めたボウルトンの経営構想力こそが、彼の経営せる企業をば産業革命の推進力たらしめることになったのである。
産業革命期経営史研究 p 54
誰しもが日常的に感じる課題や必要性からビジネスを作り上げる経営構想力。
これを鍛えることは現代のビジネスパーソンの我々にも必要なのではないでしょうか。
どうしてボールトン(とワット)は蒸気機関の製造業で競争力を持てたのか?
前提として蒸気機関がなぜ産業革命を引き起こしたのか、については過去の記事を参照ください。
また、更なる詳細は参考文献である世界史の中の産業革命―資源・人的資本・グローバル経済―のP194をお読みいただきたいです。
上記の記事中でワットが開発した蒸気機関は「回転式」であると紹介いたしました。
それまでの上下運動しかできなかった蒸気機関に回転運動をさせる特許をワットは取得したのです。
回転運動ができることで新たに製粉、醸造、製油、製紙、金属、繊維産業への展開が可能となったのです。
転用の幅が広い技術を特許に守られて保有したという競争力ですね。
このようにワットが有していた技術そのものの競争力も、もちろんありました。
しかし、私が着目したいのはボールトンによる蒸気機関事業の構想です。
この事業構想にこそ、彼らのビジネスがこの後半世紀にも渡り繁栄した源泉があると思います。
その構想とは、蒸気機関を構成する部品を自社で内製化し、全工程を自社で行い、大規模な工場で大量生産を行うという一貫量産構想です。
当時の蒸気機関における「大規模経営」というと、各部品を専業企業が製作し、納入先で専門の技術者の指導のもとで組み立てるということが当たり前でした。
つまり、「分業」と「協業」を軸としたビジネスモデルが主流だったのです。
そこに彼は、分業も協業もしない、全部自社で行うというモデルを持ち込んだのです。
この構想に至った理由は主に4つあるといわれます。
- ボールトン自身はソーホー製作所でバックル等の製造業でこの構想で事業を行っていたため
- 蒸気機関という新種の機械の部品を作れる技術者は労働市場には少ないため自社で労働力を組織的に育成する必要があるため
- 構成部品を外注すると高価であり、価格競争力が低下するため
- 利益率の低く小型の「回転式」蒸気機関がメイン商品であるために顧客のオーダメイドで作っていては設計費用で採算が合わなくなるため
どれも後世の資本主義に揉まれた製造業を知る我々からすると当たり前だと思うでしょう。
その当たり前はマシュー・ボールトン、この人から生まれたと言っても過言ではないのです。
そして驚くことに彼がこの事業構想を思い描いたのは1768年と言われています。
ワットとともに企業を作る、その時既にこの構想を持っていたと言うから、彼の経営センスに脱帽です。
ただし、決して彼が万物の天才でゼロからこの構想を打ち立てられたという訳ではありませんし、創業直後にこの構想で大儲けした訳でもありません。
彼のこの画期的な構想は、目の前の経営課題を素直に受け入れ、対策を打ったに過ぎません。
この構想を一時的に捨て去らないとビジネスが回らず、苦渋を舐めて耐えたこともありました。
諦めずに取り組み続けた結果が20年の歳月を経て花開くことになりました。
こうして技術的な競争力に加えて、価格的・組織的な面での事業全体での競争力を持っていたのです。
マシュー・ボールトンの生き様。それ、すなわち漢なり。
3つの記事にわたってマシュー・ボールトンという産業革命の推進力となった人物を見てきました。
それぞれのトピック単位での学びもさることながら、私は彼のビジネスパーソンとしての生き様に熱い漢の背中を感じずにはいられません。
彼は17歳から父の事業を手伝い始め、30代の前半までは既存の製造業の延長線上で地域のリーダーになっているのです。
そこから、大きな賭けをしてまずは失敗します。
めげずに新技術に飛びつき、20年の歳月を耐え忍びます。
優れた経営センスや先を見越した事業構想があるときっと彼自身は自覚していたでしょう。
しかし、成功はまだまだ遠い。
他の事業は成功したのに、蒸気機関事業はどうしても成功しない。
それでも一貫量産構想を捨てずに、市場開拓、技術改良、製品の標準化と規格化、労働者の育成、様々な努力を一つ一つ積み重ねていくしかない。
その不撓不屈の精神の末に彼は世界を変えるのです。
自分の信念を信じ切る、信じ切って努力をし続ける、その先に成功があると信じて。
マシュー・ボールトン。彼からはそんな漢の生き様を学ぶことができたのではないでしょうか。
次回は同時代の企業経営者のサミュエル・ワイアットという人物を取り上げます。
ボールトンは蒸気機関の供給側の立場でしたが、ワイアットはその蒸気機関を取り入れた需要側の立場になります。
彼を見ていくことで、第一次産業革命期における蒸気機関の需要と供給の両サイドの経営者の知見を抽出していくことになると考えています。
ではでは。
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